わたしたちは、このために労し苦しんでいる。それは、すべての人の救主、特に信じる者たちの救主なる生ける神に、望みを置いてきたからである。
神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる。
彼は、わたしたちの罪のための、あがないの供え物である。ただ、わたしたちの罪のためばかりではなく、全世界の罪のためである。
彼は、すべての人のあがないとしてご自身をささげられたが、それは、定められた時になされたあかしにほかならない。
その翌日、ヨハネはイエスが自分の方にこられるのを見て言った、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。
わたしたちは、父が御子を世の救主としておつかわしになったのを見て、そのあかしをするのである。
彼らは女に言った、「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。自分自身で親しく聞いて、この人こそまことに世の救主であることが、わかったからである」。
よくよくあなたがたに言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされたかたを信じる者は、永遠の命を受け、またさばかれることがなく、死から命に移っているのである。
万軍の主よ、あなたに信頼する人はさいわいです。
したがって、わたしたちも、彼のはずかしめを身に負い、営所の外に出て、みもとに行こうではないか。
見よ、神はわが救である。 わたしは信頼して恐れることはない。 主なる神はわが力、わが歌であり、 わが救となられたからである」。
主に寄り頼むは人にたよるよりも良い。
しかし、わたしは神の家にある 緑のオリブの木のようだ。 わたしは世々かぎりなく神のいつくしみを頼む。
あなたがたは、このキリストによって、彼を死人の中からよみがえらせて、栄光をお与えになった神を信じる者となったのであり、したがって、あなたがたの信仰と望みとは、神にかかっているのである。
キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる富と考えた。それは、彼が報いを望み見ていたからである。
この世で富んでいる者たちに、命じなさい。高慢にならず、たよりにならない富に望みをおかず、むしろ、わたしたちにすべての物を豊かに備えて楽しませて下さる神に、のぞみをおくように、
万一わたしが遅れる場合には、神の家でいかに生活すべきかを、あなたに知ってもらいたいからである。神の家というのは、生ける神の教会のことであって、それは真理の柱、真理の基礎なのである。
彼は神にたよっているが、神のおぼしめしがあれば、今、救ってもらうがよい。自分は神の子だと言っていたのだから」。
主は恵み深く、なやみの日の要害である。 彼はご自分を避け所とする者を知っておられる。
ネブカデネザルは言った、「シャデラク、メシャク、アベデネゴの神はほむべきかな。神はその使者をつかわして、自分に寄り頼むしもべらを救った。また彼らは自分の神以外の神に仕え、拝むよりも、むしろ王の命令を無視し、自分の身をも捨てようとしたのだ。
おおよそ主にたより、 主を頼みとする人はさいわいである。
あなたがたのうち主を恐れ、 そのしもべの声に聞き従い、 暗い中を歩いて光を得なくても、なお主の名を頼み、 おのれの神にたよる者はだれか。
主にあがなわれた者は言え。 主は彼らを悩みからあがない、
主は彼らを助け、彼らを解き放ち、 彼らを悪しき者どもから解き放って救われる。 彼らは主に寄り頼むからである。
あなたの義は神の山のごとく、 あなたのさばきは大きな淵のようだ。 主よ、あなたは人と獣とを救われる。
シモン・ペテロが答えて言った、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。
しかし、神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである。そして、わたしに賜わった神の恵みはむだにならず、むしろ、わたしは彼らの中のだれよりも多く働いてきた。しかしそれは、わたし自身ではなく、わたしと共にあった神の恵みである。
神はこのような死の危険から、わたしたちを救い出して下さった、また救い出して下さるであろう。わたしたちは、神が今後も救い出して下さることを望んでいる。
これは、わたしたちの救主である神のみまえに良いことであり、また、みこころにかなうことである。